御由緒
この天野の地に当社が創建されたのは、今から一七〇〇年以上前のことと伝えられています。天平時代に書かれた祝詞である「丹生大明神告門」によれば、丹生都比売大神は天照大御神の御妹神さまで稚日女命とも申し上げ、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、常世の宮として、この天野の地に鎮座されました。そして、応神天皇が社殿と紀伊山地の北西部一帯の土地を神領として寄進されました。
今から一二〇〇年前丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は丹生都比売大神より御神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。中世には、当社の周囲に数多くの堂塔が建てられました。また、当社に参拝した後に高野山に登ることが習慣でした。
鎌倉時代には、行勝上人により気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、社殿は北条政子が寄進し、本殿が四殿となりました。このころから舞楽法会が明治の初めまで盛んに行われます。
元寇の役では、当社にて元(モンゴル)の襲来の託宣があり、祈祷を行ったところ元軍が撤退したので、鎌倉幕府の崇敬さらに篤くなり、紀伊国の一之宮となりました。
現在の本殿は、室町時代に復興され、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門と共に重要文化財に指定されています。尚、平成十六年七月「紀伊山地の霊場と参詣道」の丹生都比売神社境内として世界遺産へ登録されました。全国にある丹生神社は八十八社、丹生都比売大神を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、当社はその総本社であります。
丹生都比売神社御由緒より
御祭神
- 第一殿 丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)
- 第二殿 高野御子大神(たかのみこのおおかみ)
- 第三殿 大食都比売大神(おおげつひめのおおかみ)
- 第四殿 市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)
- 若 宮 行勝上人(ぎょうしょうしょうにん)
所在地
和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230
境内
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社号標 |
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外鳥居 |
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輪橋 |
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楼門 小さいですが奥に見えます。 |
御朱印
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授与所で頂きました。 |
御朱印帳
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授与所で購入しました。 |
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