御由緒
当社は古来「意悲神社」(おいじんじゃ)と称し、平安時代以前の創立で、飯高の國式内社九座の一座と伝えられているが、その創立の年代は詳かではない。
室町末期の天正十六年(1588年)蒲生飛騨守氏郷が、飯高郡矢川庄の宵の森と呼ばれていた丘に築城された時に、城の鎮守社と定めて、宵の森の南の丘に社を新たに御造営されて出来た神社である。氏郷は天正十二年(1584年)秀吉公から伊勢の松ヶ島城主に任ぜられ、近江の國日野町から松ヶ島に移ってきたが、その時この宵の森(古くは意悲の森)の地の利に着目して、この森に築城を急いだ。またこの矢川の庄を「松阪」と名付けて、城下町を作り始めた。即ち、松ヶ島から強制的に寺社や商人を「松阪」へ移住させ、近江の日野商人も招いた。楽市楽座を実施して誰でも自由に商業を営ませた。またその頃まで海岸よりにあった、伊勢参宮街道を松阪の中央へ引き入れた。天正十六年に城が完成し、氏郷は入城して「松阪城」と名付けた。またこの鎮守社に新たに武士尊崇の神である「正八幡様」を勧請して、祭り神として祀り「八幡宮」と唱えた。
後世、江戸に雄飛した伊勢商人が生まれた町が松阪であり、近世の商都松阪の繁栄についても蒲生氏郷は、その基をつくったので松阪の功労者と云える。氏郷は会津若松へ移封となり、文禄四年(1595年)古田兵部少輔重勝が、松阪城主となって入城し、更に自らの信仰していた宇迦之御魂神(稲荷さま)を勧請して、当社に相殿としてお祀りすることになった。その後、元和五年(1619年:江戸初期)紀州藩徳川頼宣の領地となり、以後の明治維新までの二五○年余り松阪城は、紀州藩伊勢領十八万石の要地となり、城代の居城となった。この長い年月、当社の社司を勤め、雨龍神社も兼務していた。代々の紀州藩は、松阪着城の都度必ず当社に参拝し、また毎年一月元旦には、常に重臣を名代として参拝させられた。
明治維新となり、明治二年天皇伊勢行幸の砌、名代として北大路殿を奉幣使として代参させられた。明治四年には、郷社に列せられ遠近の人々の尊崇を集めた。明治四十一年には、時の政府の方針により全国で神社合祀が行われた時、松阪に於いても市内各所に祀られていた十七神社が、当社に合祀せられ、社名を「松阪神社」と改名が許可され、今日に及んでいる。
松阪神社のご由緒より
主祭神
- 誉田別命(ほんだわけのみこと)
- 宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)
合祀
- 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
- 伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)
- 伊邪那美尊(いざなみのみこと)
- 建速須佐之男尊(たけはやすさのおのみこと)
- 天御柱命(あめのみはしらのみこと)
- 国御柱命(くにのみはしらのみこと)
- 稚日女命(わかひるめのみこと)
- 栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)
- 豊受大神(とようけのおおかみ)
- 高木大神(たかぎのおおかみ)
- 天津日子根命(あまつひこねのみこと)
- 活津日子根命(いくつひこねのみこと)
- 熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)
- 多紀理毘売命(たきりびめのみこと)
- 多岐都毘売命(たぎつびめのみこと)
- 天棚機姫命(あまのたなばたひめのみこと)
- 思兼神(おもいかねのかみ)
- 天之忍穗耳命(あめのおしほみみのみこと)
- 蛭子命(ひるこのみこと)
- 大山祇神(おおやまつみのかみ)
- 市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)
- 天之菩卑命(あめのほひのみこと)
- 少名彦命(すくなひこなのみこと)
- 素兔命(しろうさぎのみこと)
- 火産神(ほむすびのかみ)
- 金山彦命(かなやまひこのみこと)
- 猿田彦命(さるたひこのみこと)
- 安徳天皇(あんとくてんのう)
- 大国主命(おおくにぬしのみこと)
- 事代主命(ことしろぬしのみこと)
- 上筒男命(うわつつのおのみこと)
- 中筒男命(なかつつのおのみこと)
- 底筒男命(そこつつのおのみこと)
所在地
三重県松阪市殿町1445
境内
拝殿 |
御朱印
社務所で頂きました。 |
関連記事:【御朱印】御朱印一覧
コメント