松阪神社の御朱印-三重県松阪市

三重県

主祭神

誉田別命(ほんだわけのみこと)

宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)

合祀

天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)

伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)

伊邪那美尊(いざなみのみこと)

建速須佐之男尊(たけはやすさのおのみこと)

天御柱命(あめのみはしらのみこと)

国御柱命(くにのみはしらのみこと)

稚日女命(わかひるめのみこと)

栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)

豊受大神(とようけのおおかみ)

高木大神(たかぎのおおかみ)

天津日子根命(あまつひこねのみこと)

活津日子根命(いくつひこねのみこと)

熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)

多紀理毘売命(たきりびめのみこと)

多岐都毘売命(たぎつびめのみこと)

天棚機姫命(あまのたなばたひめのみこと)

思兼神(おもいかねのかみ)

天之忍穗耳命(あめのおしほみみのみこと)

蛭子命(ひるこのみこと)

大山祇神(おおやまつみのかみ)

市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)

天之菩卑命(あめのほひのみこと)

少名彦命(すくなひこなのみこと)

素兔命(しろうさぎのみこと)

火産神(ほむすびのかみ)

金山彦命(かなやまひこのみこと)

猿田彦命(さるたひこのみこと)

安徳天皇(あんとくてんのう)

大国主命(おおくにぬしのみこと)

事代主命(ことしろぬしのみこと)

上筒男命(うわつつのおのみこと)

中筒男命(なかつつのおのみこと)

底筒男命(そこつつのおのみこと)

御由緒

当社は古来「意悲神社」(おいじんじゃ)と称し、平安時代以前の創立で、飯高の國式内社九座の一座と伝えられているが、その創立の年代は詳かではない。

室町末期の天正十六年(1588年)蒲生飛騨守氏郷が、飯高郡矢川庄の宵の森と呼ばれていた丘に築城された時に、城の鎮守社と定めて、宵の森の南の丘に社を新たに御造営されて出来た神社である。氏郷は天正十二年(1584年)秀吉公から伊勢の松ヶ島城主に任ぜられ、近江の國日野町から松ヶ島に移ってきたが、その時この宵の森(古くは意悲の森)の地の利に着目して、この森に築城を急いだ。またこの矢川の庄を「松阪」と名付けて、城下町を作り始めた。即ち、松ヶ島から強制的に寺社や商人を「松阪」へ移住させ、近江の日野商人も招いた。楽市楽座を実施して誰でも自由に商業を営ませた。またその頃まで海岸よりにあった、伊勢参宮街道を松阪の中央へ引き入れた。天正十六年に城が完成し、氏郷は入城して「松阪城」と名付けた。またこの鎮守社に新たに武士尊崇の神である「正八幡様」を勧請して、祭り神として祀り「八幡宮」と唱えた。

後世、江戸に雄飛した伊勢商人が生まれた町が松阪であり、近世の商都松阪の繁栄についても蒲生氏郷は、その基をつくったので松阪の功労者と云える。氏郷は会津若松へ移封となり、文禄四年(1595年)古田兵部少輔重勝が、松阪城主となって入城し、更に自らの信仰していた宇迦之御魂神(稲荷さま)を勧請して、当社に相殿としてお祀りすることになった。その後、元和五年(1619年:江戸初期)紀州藩徳川頼宣の領地となり、以後の明治維新までの二五○年余り松阪城は、紀州藩伊勢領十八万石の要地となり、城代の居城となった。この長い年月、当社の社司を勤め、雨龍神社も兼務していた。代々の紀州藩は、松阪着城の都度必ず当社に参拝し、また毎年一月元旦には、常に重臣を名代として参拝させられた。

明治維新となり、明治二年天皇伊勢行幸の砌、名代として北大路殿を奉幣使として代参させられた。明治四年には、郷社に列せられ遠近の人々の尊崇を集めた。明治四十一年には、時の政府の方針により全国で神社合祀が行われた時、松阪に於いても市内各所に祀られていた十七神社が、当社に合祀せられ、社名を「松阪神社」と改名が許可され、今日に及んでいる。

松阪神社のご由緒より

所在地

三重県松阪市殿町1445

御朱印授与

社務所で頂きました。

松阪神社・御朱印

関連記事:三重県の神社の御朱印・御朱印帳

三重県
スポンサーリンク
こじろーらいふ

コメント

タイトルとURLをコピーしました