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【神社】広島天満宮-広島県広島市

広島天満宮_拝殿 神社

御由緒

昔毛利の殿様が広島城を建築する際、普請小屋を建て住みついたのが、沼田郡広瀬新開小屋村→小屋新町です。

その頃、町内にたびたび火事が起こり、焼けた家は数えきれないほどでした。町の人たちはとてもこわがり、安心して暮らすことができないありさまでした。町役人綿屋七左衛門知孝(白井進家)氏と、田中嘉三次幸福氏は心配して、天満宮(天神様ともいう。御祭神菅原道真)のお力で、このわざわいをはらいのけようと天明8年(一七八八年)に天満町と町名をかえました。そして殿様にたのんで、天満宮を町の守り神として、文政五年(一八二二年)正月24日、天満小附近におまつりしたのです。しかし地理的に悪く文政10年(一八二七年)7月24日、今の地へおまつりしました。昭和20年8月6日、原子爆弾によってお宮の建物は焼けてしまい、宮司は御神体を天満小の防空壕に、9月には天満南町に仮のお宮をつくっておまつりしました。その後昭和21年8月御本殿、昭和29年8月24日拝殿を再建いたしました。

現在、教育の神様として有名な天満宮が、なで火防せの目的で建てられたのでしょうか?御祭神菅公(菅原道真)が、雷(雷神つまり火の御子)よけの神様だという信仰があるからです。

薨去の年、雷様が京都の町中にたくさん落ち、各所を炎上させたうえ、ついに政敵藤原時平も落雷のため、即死するに至ったのです。世にこの天変地異は、菅公の雷のたたりであるとされました。後世、火雷神のたたりを除けるため、火雷天神として厚く祀り、たたりがないようお祈りしたのです。

北野にて御霊会の行われたことは、これによるものです。また、火雷神は菅公の使者であって、雷神自体ではないとされています。かのごとき災害を降すのは、「世に不信の人々が多いので、そういう人々には、雷神に命じてこらしめるから心のよい者は、心配のあまり苦しまずともよい。」つまり天満宮はえん罪(無実の罪ばらし)の神としてお祀りされたのです。以後関ヶ原の戦いも終わり、江戸時代元禄の世となると世の中も平和になり、読・書・算の寺子屋ができ、中でも読・書が発展して書の神教育の神となったのです。氏神広瀬神社には、数十の御祭神が祀られていた中より当時すでに教育の神といわれていた天満宮を、当町にお迎えし、火防せの目的で建てたのは、鎮魂を意味していたからです。

天満宮由緒記より

御祭神

主祭神

  • 菅原道真命(すがわらのみちざねのみこと)

配祀神

  • 中将殿命
  • 吉祥尼

所在地

広島県広島市西区天満町9-7

神社写真

社号標と境内入口の鳥居。

広島天満宮_社号標

拝殿。

広島天満宮_拝殿

神社やお寺で、使用済みの道具を供養する塚を見かけることがあります。本神社は筆の供養塚がありました。およそ百年余前から、本神社に書を奉納すれば字が上手くなると云われ、祭に書を奉納する地域行事が終戦まで続いていたようです。原爆で神社が焼失後、復興の一環として昭和二十二年にこの行事が復活し、天満書道祭として今日まで続いています。

広島天満宮_筆塚

御朱印

授与所で頂きました。

広島天満宮_御朱印

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