御由緒
当神社は、贈右大臣正一位三条実萬公と内大臣正一位大勲位公爵三条実美公の二柱をお祀りしている神社である。
実萬公は、才識兼備菅原道真公のお生まれかわりと崇められ、当時の人々から今天神様と称せられたと言われ、早くから王政復古の大義を唱えられ、明治維新の原動力となられた方である。明治二年、天皇から忠成公の諡を賜わり、明治十八年十月、旧梨木町の今の地に梨木神社が創建され、別格官幣社に列せられたもので、あまたある明治維新の元勲、元老、志士の中で唯一人公をお祀りしたのである。
実美公は、父実萬公の遺志を継がれ、あらゆる困難に堪え、危難に遭遇されながら、明治維新の大業を達成されたのである。明治二年、都が東京に移されるについて京都御所が廃止されようとしたとき、実美公は「それでは市民が可愛そうです。それによって京都はさびれます」と明治天皇に進言され、それによって、京都御所廃止案は中止となったばかりか却って「国家の大礼は京都御所に於て行う」と定められ、そのため、大正、昭和の即位は京都御所で行われ、その都度京都は発展したといわれ、いわは公は、京都の恩人でもある。大正四年、大正天皇の即位式にあたり、第二座御祭神として梨木神社に合祀された。
このように父子揃って同じ道を歩み、志を同じくし、御祭神として同一の別格官幣社に合祀されるということは実に稀有の例と申さねばならない。
当神社社頭にある染井の水は、京都三名水(醒ヶ井、県井、染井)の内現存する唯一の名水として知られ、昔から茶の湯に適し、今もお茶同好会に愛用されている。
当神社境内は、九世紀後半に栄えた藤原良房の娘明子(清和天皇の御母染殿皇后)の里御所の趾で、この良房の屋敷を染殿と称し、宮中御用の染所として染井の水が用いられたと言われ、京都主要産業の一つである染色業にゆかりのあるものである。
当神社の二の鳥居の傍に、元当神社萩の会会長であった湯川秀樹博士の歌碑に「千年の昔の園もかくやありし木の下かげに乱れさく萩」とあるように、今や当神社萩は名所の一つとして知られ、毎年九月の第三土、日曜に行われる萩まつりには多くの参詣者がある。また毎年この時期に行われる萩まつりの協賛京都府市民俳句大会は年々盛大になっている。
当社境内の東南の隣接地、現在の東桜町(藤原道長が晩年奈良東大寺に擬し建立した法成寺趾)は、雨月物語の作者上田秋成翁の終焉の地である、その秋成翁の歌碑が境内の西南の隅に建っている。また拝殿のかたわらに天壌無窮の石碑がある。これは実萬公が天壌無窮と軸に書かれ、日夜皇室の弥栄を祈念しておられたが、破損したため石に刻まれたと伝えられている。明治天皇はこのことをお聞きになり、日野西侍従に命じ、その石碑を拓本にとられ、二月十一日の今の建国記念日にお居間に掲げられ、国家の弥栄、国民の安泰を祈念されたと言われる。大正十四年、時の京都府知事池田宏がこれを聞き、この石碑を三条家から譲り受け当神社に奉納されたものである。
もともと当神社の境内あたりは明治まで公家屋敷が建ちならび、西側の京都御所との間にある梨木通りは、朝夕参内する公卿たちの参内道であった。この近くに、平安中期の代表的歌人紀貫之が、古今和歌集の撰にあたっていたという屋敷があった。それ故紀貫之にゆかりのある山吹を梨木通りの両側に植え、春は「山吹」、秋は「萩」と参拝者の目を潤し、一層その花の名所としても人々からよろこばれる憩いの場所としたいとねがっている。
以上が当神社縁起の歴史的概要である。
梨木神社のしおりより
御祭神
- 三条実萬公(さんじょうさねつむこう)
- 三条実美公(さんじょうさねとみこう)
所在地
京都府京都市上京区寺町通広小路上る染殿町
御朱印
授与所で頂きました。 |
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