加佐登神社の御朱印-三重県鈴鹿市

加佐登神社_拝殿 三重県

御由緒

伊勢国鈴鹿郡荘野駅より十町ばかり北なる高宮村という所に、御笠殿とて、日本武尊の御社あり、こは尊の御笠を藏めし所と語りつぎ、また其れよりやゝ放れて、白鳥塚とて同じ尊の御陵あり、この辺おし並て、いにしへ能褒野といひし所にて、かの王の崩御ませる地なる故に御陵あるなり。

延喜の諸陵式に「能褒野墓日本武尊在伊勢国鈴鹿郡」とあるはこれなり。なほ其あたりに奉冠塚奉装塚など云ふもあるは皆かの王の御遺物を納めし所といふは信に然るべし抑かの王の御よはひいと若くまして倭童男王と申ししほどに、筑紫国なる熊襲たけると云ひし荒えびす討ちとり玉ひて、倭建男命と御名におひ坐せる御いさをしは更にも申さず、其後に吾妻の国々なる惡き神また射向ひまつる夷どもをみな征伐け給ひて、大倭のみやこに帰り坐せるに近江国の伊吹山なる荒ふる惡神をも取給はむと、其山に登り給ふ、爰に其神あしき気吹を起せるに、尊その惡気にあたり坐て、御足こひ腫たりしより悩み給ひて、遂にここにて崩御まししかば、即この所に御陵をつくりて、葬め奉れるに、白鳥となりて飛出給へれば、その御陵をひらき見るに、ただ御衣のみ存れる故にこを白鳥の陵とまうすこと、古事記日本書記、熱田古縁起などに見えて、我師本居翁の古事伝は更なり、余が古史伝にもくはしく考へ詿せるが如し。

欺くこの御笠を藏めし丘はも、いと古く御社たてゝ、彼の王の御霊を祝ひまつりて、御笠殿とも、御笠社とも申し来り、其里にます熊野神祠の神主鈴木氏なむ、徍昔より持いつき奉り来ぬるを、御陵威いち速くおはし坐すは、この御笠はも小縁の物にあらねば、殊に御霊のとゞまり坐せる故にや有らむ。然るは古くかくと云ひしは、世の常の笠はさる物にて、軍の時に用ふる兜をもしか言ひしこと、我ふみどもに考へ明せる如くなれば、此御笠と申せるもかならず王の御軍に出給ふごとに冠たまへる御兜ならむと思はるればなり、さて此を御笠社とまうすより、人の躰にいづる腫物、また瘡といふ病をなをし給ふと世にいひ伝へて、其なやみ有る徒から、近き辺の国は更なり、遠き国々よりもまゐで来て、そのよし願まをすに、いと速なる験ありとぞ。

この大神のさる病どもを直し給ふと云ふこと、心得がたく思ふも有めれど、是なむ尊き神の御惠みにてかの吉野山に鎮座す、水分神とまをすは、雨を掌たもふ神に坐すを、いつの頃よりか唱へ訛りてみこもり明神と申すにつきて、子なき者いのり申せば、孕らしめ給ふ神ぞと世にいひつぎて祈り申すに、必ず其験ある如く、笠をはれ物のことに云ひなして、人の真心に祈り白すによりて、その御使い神などの、大神の幸御霊の御陵威をし賜はりて癒し給ふことゝ思はる。最も奇霊なる御わざなりかし。まして御足を損ひ給ひし御古事のあれは更なり斯ていにし文政六年八月のころ、己みやこに上れる時しも、その御陵にまいり、御笠社にもまゐでて拝み奉れるに、その辺りの老人どもの言に、他病にても、腫ものの又は瘡など名けて、禰ぎ言する人おほかるに、悉くその験ありといふに、畏けれど己があり経るやまひをし腫物ならねど其病ひに准へて願まをし、此病どもみな癒えたればいかで人伝にても奉賽し奉らむと常に心にかゝる物から、よき伝なくて過しぬるを、今年その社に仕へまつる鈴本信房ぬしなも大江戸に来て、わが教へ子にさへなりて、此御社の由よし書てと請はるゝに、己としごろ信じ奉れる由緒もあれば、かへり白しの御初穂そなへ、なを行末の事の祈りをも頼み、打いさみつゝ筆とりて、誰もよく読みよく、聞ゆべく、有のまにまに御由来をかく書しるせるは時は、文政十二年といふ年の九月

平田篤胤

御笠殿社由来記より(御笠殿社は合祀して加佐登神社となる前の社名)

由緒を見ても何を言っているか分からないと思いますので、要約すると以下の通りとなります。

  • 伊吹山の戦いで傷つき病に侵された日本武尊はここで亡くなった
  • 亡くなったときに持っていた笠と杖を御神体としてお祀りしたのが御笠殿社の始まり
  • 病気(主に皮膚病)治癒の御神徳あり

御祭神

  • 日本武尊(やまとたけるのみこと)
  • 外十六神

社号標

加佐登神社_社号標

参道

鳥居が連なっていて趣があります。

加佐登神社_参道

拝殿

加佐登神社_拝殿

所在地

三重県鈴鹿市加佐登町2010

御朱印

授与所で頂きました。

加佐登神社_御朱印

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