御由緒
当社は欽明天皇二十五年(五六四)六月十一日に影向があり、飾磨郡伊和里水尾山に大己貴命(兵主の神)を祀ると伝えられ、創始千四百有余年の歴史を有しています。
また、播磨国風土記には「因達と称ふは 息長帯比売命 (中略) 渡りましし時 御船前に御しし伊太代の神(射楯の神)此処に在す 故 神のみ名に因りて 里の名と為す」と記されているところから、八世紀以前には射楯の神が飾磨郡因達里に祀られていたことが知られています。
しかし、二神を同殿にいつ合座されたかについては明確な資料が無いので今後の研究に期待するところですが、九二七年に編纂された延喜式神明帳には「射楯兵主神社二座」とあるので、少なくとも八百年代後半には合座されていたと考えられています。
その後安徳天皇養和元年(一一八一)には、播磨国内大小明神百七十四座の神々を合わせ祀って「播磨國總社」の称号を戴いて三日潮「播磨国総鎮守の神社」として広く知られるようになりました。
また、歴代の守護職・城主からも「家の氏宮」として「姫路城鎮護の社」として篤い崇敬を仰いで参りました。
特に、今から四百年前の姫路城大築城に際して現在地に移転遷座してからは、池田輝政公からは正面参道入り口の中堀に架かる「石造りの太鼓橋(鳥居先橋)」を、本田忠政公からは「総社総神殿」や「玉垣」の造営がなされ、続いて榊原忠次公からは「舞殿の再興」や「大鳥居(県重文)」が寄進される等数々の宝物が奉献されましたが、未曾有の大戦の戦火によって全ての貴重な歴史・文化財が烏有と帰してしまいました。
現在、最終の戦後復興として「総社奉賛会」を結成して、昔日の荘厳な佇まいを取り戻そうと奉賛活動を執り行っています。
播磨の神々を祀る風土記伝承の神社由緒より
御祭神
- 射楯大神(いたてのおおかみ)[五十猛尊(いそたけるのみこと)]
- 兵主大神(ひょうずのおおかみ)[大国主命(おおくにぬしのみこと)]
ひょうずとは河童のこと。つまり、大国主=河童だと表しています。
所在地
兵庫県姫路市総社本町190
境内
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神門 |
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拝殿 |
御朱印
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授与所で頂きました。 |
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