御由緒
古書に「空鞘神社の縁起は甚だ古く、勧請の年紀詳らかにするも由無なきも後陽成天皇の御宇豊臣秀次未だ関白たりし文禄元年壬辰の歳、毛利輝元陰陽両道に跨る太守として広島城郭の築城を告ぐるの時枯萩寒草の間此の地に二社あり、大を空鞘大明神、小を彦山明神という」とあります。この他の私記等の諸書によれば天文年間の御創建ということです。その後隆興の一途をたどり、毛利氏の崇敬なかなか篤くかなりの社領をも有していました。
延享(一七四四~一七四七)、明和(一七六四~一七七一)の二度火災に遭いましたが、その都度復興され、天保五年(一八三六)社殿を造営し、明治五年(一八七二)社格を村社に列せられました。同四十年(一九〇七)神饌幣帛料供進社に指定され大正八年(一九一九)社殿を新築し神域を拡大、当神社より南舟入まで、及び中島、吉島一円の産土神として社頭も非常な賑わいを見せていました。
昭和二十年(一九四五)八月六日米国軍により投下された原子爆弾によりすべて灰燼に帰しましたが、同二十八年(一九五三)十月復興され現在に至っています。
「空鞘」の名は、社頭の松の大木に刀の鞘のみが掛かって居たことによりその社名となったと伝えられており、昭和四十年の町名改正まで神社周辺は空鞘町と称していました。
空鞘稲生神社御由緒より
御祭神
主祭神
- 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
- 宇氣母智神(うけもちのかみ)
- 和久産巣日神(わくむすひのかみ)
相殿神
- 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
- 天津日高日子穂穂手見神(あまつひこひこほほでみのかみ)(火遠理命(ほおりのみこと))
- 正勝吾勝勝速日天忍穂耳神(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのかみ)
- 天津日高日子番能邇邇藝神(あまつひこひこほのににぎのかみ)
- 天津日高日子波限建鵜茅葺不合神(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのかみ)
所在地
広島県広島市中区本川町3-3-2
神社写真
社号標。
拝殿。
御朱印
授与所で頂きました。
御朱印帳も購入しました。紺色の同じデザインのものもあります。
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