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【神社】手長神社-長野県諏訪市

手長神社_拝殿 神社

御由緒

境内近傍で、旧石器時代および古墳時代の複合遺跡の手長丘遺跡が、上諏訪中学校教員(当時)の林茂樹氏により発掘され、旧石器時代の遺跡としては岩宿遺跡(群馬県)に次ぐ発見である。古墳時代の出土品は祭祀遺物である可能性が示唆されている。また境内上方からは、茶臼山古墳群が発見されている。眼下に諏訪湖が開け、背後に霧ヶ峰を擁し、湖と山の幸に恵まれた景勝の地は、遠古より人の住まう土地であり、古くから神が祀られており、今に、手長神社と称する。

嘉禎年間(一二三五~一二三七)成立と伝える、諏訪大社上社社家の茅野外記太夫家の「根元記」に”下桑原鎮守”とあり手長神社であろうと考証される。元文五年(一七四〇)成立の「伊那温知集」に、上伊那郡伊那富村羽場(現辰野町)に分祀される手長神社の、弘治二年(一五五五)の造替の棟札の写しが見え、一円より崇敬を集めていたことが分かる。

遅くとも中世には諏訪大社上社の枝宮(末社)として、茅野外記太夫家の配下にあり、十一月には湯立神楽が行われていた。別当寺は手長山法光寺、手長大明神の本地仏として、弘法大師作と伝える聖観世音菩薩を安置していた。明治以前は手長神社直下の旧市立図書館の敷地に所在していたと伝わる。

天正十九年(一五九一)に諏訪湖中の高島に築城されると、その鬼門にあたることから、やがて、代々の高島藩主より崇敬を受けた。古来、諏訪の三辻と呼ばれて、相撲興業の場として、”手長の辻”が知られており、天明二年(一七八二)の高島藩の騒動の際に、手長の辻に集う力士の功績の大なることもあって盛大を極め、八朔相撲と親しまれ、手長神社の例祭を、今も八朔祭ともいう。

維新を迎えるや、国学を修めた宮坂作三を初代の社掌に迎え、以降は久保田家と熊沢家が交代して宮司を勤めた。明治五年に村社、同三十二年に郷社、大正十三年に県社、昭和四十三年に別表神社。

手長神社御由緒より

御祭神

  • 手摩乳命(てなづちのみこと)

所在地

長野県諏訪市大字上諏訪茶臼山9556

神社写真

社号標と境内入口の鳥居。

手長神社_社号標

階段を上った右手の神楽殿。大正初期に造られ、昭和九年に移築奉納された諏訪郡内唯一の能舞台。

手長神社_神楽殿

拝殿。市有形文化財。天明八年(一七八八)に初代立川和四郎富棟により造営。桁行一間、梁間一間、入母屋造。

手長神社_拝殿

手長神社の旧本殿。現在は境内社の弥栄神社。氏子地域の諸社を合祀している。宝永六年(一七〇九)に伊藤庄左衛門により造営。一間社流造。他にも摂社末社がたくさん鎮座しています。

弥栄神社

樹齢五百年の延命杉。

手長神社_延命杉

御朱印

社務所で頂けます。こちらは前任の宮司さん(現八剱神社宮司)から頂いたもの。

手長神社_御朱印

現在は月替わりの手長様が押印された御朱印となっています。

手長神社_御朱印_8月 手長神社_御朱印_9月
葉月・8月 長月・9月
手長神社_御朱印_10月 手長神社_御朱印_11月
神無月・10月 霜月・11月
手長神社_御朱印_12月 手長神社_御朱印_1月
師走・12月 睦月・1月
手長神社_御朱印_2月 手長神社_御朱印_3月
如月・2月 弥生・3月
手長神社_御朱印_4月
卯月・4月 皐月・5月
水無月・6月 文月・7月
弥栄神社_御朱印
弥栄神社(境内社)
手長神社_御朱印_迎春
令和三年迎春
手長神社_御朱印_疫病退散
同デザインの病魔退散

御朱印帳

手長神社_御朱印帳

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