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【神社】居多神社-新潟県上越市

居多神社_社殿 神社

御由緒

居多神社は大国主命・奴奈川姫・建御名方命(諏訪神)を祭神とする式内社である。朝廷から弘仁4年(813)に従五位下を、貞観3年(861)に従四位下をたまわった。古代、越後国司の厚い保護をうけて栄えた。

承元1年(1207)、親鸞聖人は越後国府に配流となった。居多ヶ浜に上陸した聖人は、まず越後一の宮居多神社に参拝した。以後建保2年(1214)、常陸国稲田へ旅立つまでの七年間、越後で生活した。

南北朝の動乱が一段落した貞和3年(1347)、室町幕府から社殿修造費として田井保(上越市板倉区田井)三分の二をたまわった。さらに観応2年(1351)、越後守護上杉憲顕から荒蒔保(上越市清里区荒牧)保司分を社領としてたまわった。以後、越後守護上杉家の厚い保護をうけ、越後一の宮として栄えた。

戦国時代には、京都の文化人達があいついで越後府中(直江津・五智)を訪れた。文明18年(1486)、京都常光院の僧堯恵は守護上杉房定の厚遇をうけ、至徳寺の塔頭最勝院を宿とした。滞在中、居多神社に参拝し、「天の原雲のよそまで八島もる 神や涼しきおきつしほ風」と詠んだ。京都相国寺の僧万里集九も長享2年(1488)府中を訪れ、居多神社をはじめ国分寺、安国寺など、府中の名所を見学した。堯恵、集九以外にも、たくさんの文化人が参拝した。

戦国時代、居多神社も戦乱にまきこまれた。天文2年(1533)、反長尾為景派によって社殿が焼かれた。そのため同年、為景(上杉謙信の父)は居多神社に内乱鎮定を祈願し、社殿造営を約束した。天正6年(1578)、戦国大名上杉謙信が春日山城で死去すると、用紙景勝と景虎とが家督相続をめぐって争った。これが有名な「御館の乱」である。その際、居多神社は景虎に味方したため景勝軍の攻撃をうけた。慶長3年(1598)、景勝が会津(福島県)へ移ると、晴れて帰国することが出来た。翌4年、春日山城主堀秀治から社領13石を寄進されたが、もはや昔日の面影はなかった。

江戸時代、幕府から高百石の御朱印地をたまわっていた。明治12年、海岸浸蝕のため現在地に遷座した。平成20年7月26日、新社殿造営、竣工祭。

居多神社御由緒より

御祭神

  • 大国主命(おおくにぬしのみこと)
  • 奴奈川姫(ぬながわひめ)
  • 建御名方命(たけみなかたのみこと)

所在地

新潟県上越市五智6-1-11

神社写真

社号標。

居多神社_社号標

社殿。建替えたばかりでピカピカでした。

居多神社_社殿

境内社の雁田神社。御祭神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)と神皇産霊神(かみむすびのかみ)。元気な赤ちゃんを授けてくださるそうです。お祀りしてあるものを見るといかにもで、非常にご利益がありそうです。

雁田神社

御朱印

社務所で頂きました。

居多神社・御朱印

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